親の母校と、我が子の受験

私立小学校受験を望まれるご家庭の中には、ご両親(もしくは、お父様、お母様のいずれか)が私立小学校の出身で、我が子もご自分の母校で学ばせたい、という願いを持たれている方もたくさんおられます。

母校を愛する心

幼児教室マナーズでは、入室前に必ず、事前の面談を行っています。その席で、とても言い出しにくそうにしながら「先生・・・じつは、私は〇〇校の出身です。出来ることなら、我が子にも母校で教育を受けさせたい、と考えているのですが・・・」と話し始められる時、胸が締め付けられる思いがします。
母校への愛、我が子への愛。多くの私立小学校出身者は、決して安易に「我が子の母校進学」を考えていらっしゃるわけではありません。

母校への思い、愛情。それは在学中にはほとんど意識されなかったものかもしれませんむしろ、卒業してから、時が流れれば流れるほど、自分の人生と重なり、そこに一つの郷愁のような感情がプラスされ、「わが子も、母校で学ばせたい!」という思いは熟成されていく、そのように思います。

特別な事情がない限り、人は皆、学校を卒業後、社会に出て、仕事をします。そして、社会人として経験を積み、少し落ち着く頃になって、多くの人はあらためて自分を育ててくれた教育環境への感謝や誇りを実感するようになります。ちょうどそんな時期に「我が子の就学時期」がやってきます。

在学中は、うれしいこと、楽しいことばかりではなく、辛いことも、悲しいこともあった年月。しかし、大人になり、人の親となった時、あらためて母校は「よくわかった」理想の教育環境、となっていきます。息子や娘を、そこで学ばせたい!と願うのは、至極当然のことでしょう。

しかし、母校受験が難しいか難しくないか、ということに考えを巡らせる前に、どうぞご自分の母校は「僕の母校、私の母校」として、あらためて位置づけをしてください!そして、その母校は、ご自分達のすばらしい思い出の中に存在させ、まずは気持ちをリセットしましょう。その上で、親として、白紙の状態から「我が子の学校選び」を考えてみませんか? まずは母校ありきではなく、自分の母校は母校として大切にとっておき、そこは最初から「よくわかっている、理解できている学校」として横に置いて考えてみる、それが、最も真っ当な親としての考え方だと思います。
幼児教室マナーズでは、子どもだけではなく、ご両親ともたくさんの話す時間をもうけ、メールのやりとりもします。ご両親の思いや考えを十分に理解した上で、ご家族に寄り添い、一緒に考え、準備を進めていきます。

親は親、子どもは子ども

もし親が「母校ありき」として考えてしまったとしたら?その学校は「パパの母校」「ママの母校」であるはずなのに、知らず知らずのうちに、親の思いが見えない力となって我が子の意識をコントロールしていきます。

子どもは「白紙のキャンバス」です。親の母校の名前を聞いたり、何か機会があって母校に行ったりするたびに、どんどん意識の中に学校名や学校での出来事を留めていくようになります。そしていつしか、親が強要していなくても、子ども達は自然に「ここはぼく(わたし)も行く学校なんだよね」「きっとパパ(ママ)はぼく(わたし)にもこの学校に行ってほしいって思ってるんだよね!」というふうに強く感じていくようになるのです。たとえ、親がそういう事を口に出さなくても、です。

でも、お子様は別人格。親であるあなたと、とってもよく似ていたとしても、まだまだ幼い子どもです。どんな色にも染まる要素、可能性を持って生まれてきています。いつもは、そんなことは十分に理解されているご両親も、「受験、母校」となると、すっかりそのことは忘れてしまわれ、母校しか見えなくなる、そんなご両親が多いのです。

首都圏には、約90校もの私立小学校があります。それぞれの学校に建学の精神があり、毎年そこから多くの子ども達が巣立っています。人の親となり、我が子の学校に「親として」頻繁に足を運び、新しい環境の中で我が子と共に多くを経験し、感じ、学べるということ・・・本当にとても価値のある素晴らしいことです。

子どもと学校、家庭と学校は、天命とも言うべき縁によって結ばれていきます。両手を広げて我が子を、ご家庭を迎えてくださる学校こそが、進学して幸せになる学校です。親の母校は、あくまで「親の母校」。そのことを、あたためてしっかりと肝に銘じること。それが我が子をピュアに見つめ、導いてあげることでもあると思います。母校=我が子の進むべき道、と信じて疑わない親は少なくありません。しかし、こういう短絡的な考え方では、受験結果が思い通りでなかった場合、親子ともにとても不幸になってしまいます。

母校も、あくまで「選択肢の一つ」。いろいろな可能性を楽しむ広い心を持ってみませんか?

ちょっと余談を

余談として、幼児教室マナーズ、私のお話を。

母校は、1917年、大正6年、大阪市住吉区に創立された幼稚園から大学、大学院までの女子の一貫校でした。(と過去形で書いた理由は、今では大学は共学校になったからです)

私はその一貫校に、中学受験を経て入学。昭和40年代後半の生徒達は「一に力、二に力、三に力、力の人」という建学の理念をまさに地でいくようなバイタリティーに溢れた商家の子女がほとんどで、私はこの学校で若い時代の大半を過ごしました。

学校の水がフィットした私は、在学当時から「将来、私が女の子を授かったら、是非この学校で学ばせたい!そして娘には中学ではなく、小学校や幼稚園からお世話になってもらおう!」そう思っていました。

『私が大好きなこの伝統ある制服を着せたい!私がそうしたように、スポーツデイでは溌溂と戦い、コーラスコンクールでは友とのハーモニーに心震わせ、始業式や終業式では、ひんやりとした空気に満ちた古い講堂の中、座り心地の悪い木製の長椅子に座り、静かな気持ちで学院歌を歌って欲しい!』

これは、23歳の私が母校から依頼を受け、「母校への思い」というテーマで学校の機関誌に書いた文章です。まさに、これが当時の私の願い、私の夢だったのですよね。

でも、残念ながら、私は結婚と同時に関西を離れました。幸運にも娘は授かったものの、「娘を母校に!」という夢は、チャンスさえ与えられず、叶わぬ夢に終わりました。

母校の大学を卒業してから、すでに40年。それでも、帰省した折、町や電車で母校の制服姿の女子生徒を見ると、胸がキュンとし、さまざまな思い出が浮かんできます。郷里を離れて暮らしているという条件も、一層母校への愛慕の思いを駆り立てるのでしょうが、在学中、悲喜こもごもあったとしても、結局はトータルして「思い出深い良い学校生活だった」と思える人達にとっては、母校への思いは、非常に強いものだと思えてなりません。

でも、最近私は「母校への思い」が、決して我が子と重ねる事のできない「叶わぬ夢」であった事が、じつは私にとっても、そして我が娘にとっても、幸せな事だったのかもしれないと感じるようにもなりました。なぜかって?娘は娘で、私がそうであったように、彼女の母校でいろいろなことを経験しながら成長し、成人しました。その間、私も夫も娘の両親として、娘と共に娘の母校で、いろいろな経験をさせていただきました。今ではそのすべてが、かけがえのない「親としての財産」となっています。

そして余談をもうひとつ。

私の夫はW大学の出身です。様々なスポーツでも活躍することの多いW大学ですから、息子と娘は幼い頃から、テレビの前で父親が連呼する「Wがんばれ!Wがんばれ!」の声の中で育ちました。 ピクニック気分で、よく神宮球場で大学野球の観戦もしました。そんな我が家の子ども達は、幼稚園の頃は、「K大学」と聞けば「パパの敵の学校だね!」と真面目な顔でよく言ったものです。そして、大学受験を迎える年齢になっても、「やっぱりK大受験ってない、かな。多少の違和感?があるんだよねえ」などと言って笑っていました。