「知識」よりも「知恵」を

 

受験産業にハメられた親たち

世の中では早期教育が大流行。知育も外国語習得も、少しでも早くに始めるほうがいい!という幼児相手の産業にすっかりハメられた感がある…私はそう思っています。

1歳では「1歳の時にすべきこと」、2歳では「2歳の時にすべきこと」をするのが正しい子育てであり、前倒しはある意味、親の虚栄心を満たすため、親の自己満足のためと思えてなりません。ちょっと考えてみましょう。

スーパーチルドレンの台頭

昔から、自分の大好きなこと、興味のあることに熱中し、その道の立派な「マメ博士」になっている子どもはたくさんいます。動物や昆虫など生き物が大好きで、まるで獣医さんや動物園の飼育員さんのように精通している子どもや、幼い頃から電車やバスなどの乗り物が大好きで、それが高じてJRの特急や急行列車の名前から私鉄の駅名まで覚えてしまったという子ども等、この類の話しは昔からよくあります。

私の教室にも毎年、大人顔負けの知識で、顔を紅潮させ、前のめりになっていろいろな説明をしてくれる「マメ博士」はいます。そんな子ども達の様子は、本当に愛らしく、和む時間です。

こういう「子ども達自身の知りたいという意欲」からの学びは本当に素敵です。しかし、ここ10年くらいでしょうか、昔ながらの「マメ博士」とはかなり雰囲気が違うスーパーチルドレンが目立つようになりました。

彼らの知識量もすごいです。しかし、そういう子ども達を見ていると、ある特徴があることに気づきます。そういう子ども達は、大抵が「大好き」という自らの好奇心や自発的な向学心からではなく、親の勧め、親の求めに従い、「利発な子、利口な子」になっている、そう、彼らの学びのベースは「自ら」ではなく「親の志向」なのです。

「くだらない意見です。利口なのだから良いじゃないですか。何がいけないと言うのです?」というスーパーチルドレンのご両親の非難の声が聞こえてきそうですが…

私はそういう子ども達が醸し出すカサカサとした空気、優越感に満ちた雰囲気を憂慮しています。もちろん!何でも「知る」という亊はすばらしい亊です。スポンジの様に何でも吸収していく頭脳の柔らかい時期に、いろいろなことを知り、知識が増えることは素敵です。知らなかったものを知る事によって、子どもの世界がどんどん広がっていく、その価値ははかり知れません。

ただ、私の憂慮の元にあるものとは、「知識が豊富である」という亊自体に価値を見出し、それを高く評価して、我が子が「優秀である」と思い込んでしまう両親。そして、子ども自身も、もの知りである自分は誰よりも優秀である、と認識し、幼くして天狗になってしまう「小山の大将」的な人柄です。

人格はタンスのようなもの

私は、人格とは「タンスのようなもの」と考えています。 シンプルな造りのタンスや、装飾のたくさん付いたタンスや、渋いタンスやカラフルなタンス、等々、そのタンスはどういう家庭のどういう両親のもとに生まれてきたか?によって違うのだと思うのです。幼い間は、まだまだ頑丈さに欠けるタンスを丈夫にし、大きくしていくことも親の役目です。そして、子ども達は成長とともに、その「タンス」の中に、どんどんと中身を入れていく… 入れていくもの、それが「知識」ではないでしょうか。

人が生まれた時には、タンスの中には必要最低限の、誰もが持っているものが入っていて、「こんな時には泣けば良し。こんな時には、こういう泣き方が有効とか、母乳の飲み方はこうだ、とか、どちらかと言えば本能的なものばかり。そのうちに、日々の生活の中から、また親が与えてくれた様々なチャンスから、タンスの中にはどんどんとグッズが入っていきます。知識が増えていく、ということです。

でも!入れていくばかりで良いのでしょうか?

私の考える親の役目とは、タンスの中に知識というグッズをどんどんと詰め込んでいくことである前に、入れたグッズをどのように使うか、を教えてやること、入れていくばかりではなく、○○はこの引出しに、△△はこちらの引き出しに、ということを教え、こういう状況では、この引出しからこれを、そして下の引き出しからこれをを出せば上手くいくよ、ということを教えてあげることではないでしょうか。

つまり「知識」を詰め込むばかりではなく「知恵」を育ててあげることこそが、大事なリードの仕方だと思うのです。スーパーチルドレンの親達は、ひたすらどんどんと中身を入れたがり、タンスの中は知識であふれかえってしまい、気づけば知識が増えていくことにだけに喜びを感じている、そんな気がしてなりません。

タンスの中身の使い方

これは、ある日の私の教室の「年中児クラス」での出来事です。

私「お父さんやお母さんと一緒にデパートにお買い物にいきました。ところが、おもちゃ売り場で欲しいおもちゃに見とれているうちに、あなたはお父さんやお母さんとはぐれてしまいました。パパやママがいなくなっちゃった、ってわけよ。そう、迷子になったのね、あなたたち。さあ、どうする?」

Aちゃん「おまわりさんに言う!」
Bくん「ちがうよ、おまわりさんはどこにでもいるわけじゃない、まず交番を探す!」
Cくん「ちがうよ、大人の人に家の住所を言う!ぼく、住所は言えるもん!」
Dちゃん「ちがう、住所じゃないよ!ママのスマホの番号を言うんだよ!」

いかがですか?

これは、一つのカリキュラムの中での会話ですが、なかなか「深い内容」だと思いませんか?

困った時にはおまわりさんに言う。
おまわりさんは交番にいる。
自宅の住所を言う。
お母さんのスマホの番号を言う。

すべて、お父様やお母様に教えられたことをしっかりと覚えているからこそ、こういう答えが出てきました。

ひとつひとつは、とても素晴らしいです!立派です!私はそう言って、一生懸命に覚えたことを誉めました。でも、せっかく覚えたことを「どのように使うか?」「どんな時に役立てるか?」です。このカリキュラムは、「知識」を「知恵」として働かせることを学ぶためのものなのですが、私が言いたいことを理解していただけるでしょうか?

「タンスに知識を詰め込む」ことも大事ですが、たとえ数少ない知識だとしても、幼いなりに、その場の状況を判断する目を持つこと、その場に応じた適切な対応を考えられること、考えようとすること、そんな子どもに育てることに是非ぜひ着眼してください。

タンスの中から知識を出して、物事を解決できること、自ら行動できること、それが大事なのです。こういうことを昔から「知恵を働かせる」というのですね。「知識」ばかりに目を奪われず、「知恵」を働かせることの出来る子どもを育てることの重要性を、親こそが認識しなければなりません。